真似がいつか本物になる

 今年もお彼岸を迎えましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。身も心も「けんこう」に毎日ほとけ様に手をあわせておられますでしょうか。このブログは「身も心もけんこうに~」の挨拶で始まることが多いですが、「身と心」という言葉にはとても大切な意味があります。「身」と「心」を入れ換えて「心も身もけんこうに〜」ではいけないのです。どっちも同じではないかと思う方もいるかもしれませんが、「身と心」という順番が大事なのです。「禅」では「こだわりを捨てること」が大切であると説きますが、「身と心」という順番にはとてもこだわりがあります。こだわりを捨てなさいと言っている「禅」がこだわっていることとは何なのか、今回は「身と心」について話をしていきましょう。

 永泉寺は曹洞宗(そうとうしゅう)という宗派で、鎌倉時代に道元(どうげん)というお坊さんが中国で「禅」の修行を修め、その教えを日本に伝えたことから始まっています。道元禅師(ぜんじ)は、「身と心は一つである」「身体の動きや形をととのえると、心もととのう」と説きました。そして、修行において大切な事は、顔を洗うことや食事、掃除やお風呂に入ることなど、日常生活のひとつひとつを丁寧に行うことであると言っています。その修行生活で中心にあるものが「坐禅」です。
 坐禅は、ただ足を組んで坐るだけではなく、多くの作法を守らなければなりません。坐禅堂への入り方、坐禅堂での歩き方、歩いているときの手の形、坐る前後の挨拶、着物やお袈裟の扱い方、足の組み方、呼吸の仕方、目線の向き、坐っているときの手の形、鐘の鳴らし方、それ以外にも様々なことに気を配らなければなりません。坐っている時間だけが坐禅という訳ではないのです。坐禅に細かな作法があるように、食事や洗面、トイレやお風呂の時にもそれぞれの作法がきっちりと決まっています。朝起きてから夜寝るまで作法漬けの生活です。禅道場の修行が厳しいと言われる所以はこの作法の細やかさではないでしょうか。作法を覚えるにも時間はかかるし、覚えていなくてもやらなければいけません。出来ていなければもちろん注意されます。更に、それぞれの作法ごとに偈文(げもん)と言われるお唱えごとがあります。ですから、道場に入門したばかりの時期は、作法や偈文で頭がいっぱいになり、自分が何をしたらいいのか分からなくなり、身体が動かないということもありました。そんな修行生活に何故耐えられたのか、今振り返ってみると、同じように苦労した仲間の存在がとても大きかった事に気付かされます。もしも一人だったら到底耐えられなかったでしょう。そんな仲間と共に1週間、1ヶ月、3ヶ月と励まし合いながら修行していくうちに自然と作法も身についていました。修行生活が一年経つ頃には、何も考えなくても作法どおりに身体も動き、自然と口からお唱えごとが出てくるようになります。入門したての頃は、次は何をするんだろうか、これで動きは合っているのか、お唱えはこれでいいのかなど、不安な気持ちでいっぱいでしたが、その様な迷いは一切ありません。ただただ丁寧に日々の生活を送る自分の姿がそこにはありました。道元禅師の伝えた「身と心は一つである」「身体の動きや形をととのえると、心もととのう」という教えとはこういうことなのだなと実感した瞬間でもありました。 
 「心」をどうにか落ち着けようと、あれやこれやと頭で考えても、心は少しもじっとしてくれません。コロリコロリとあっちに転がり、こっちに転がりとやりたい放題です。この心を落ち着けるために、まず自分の行いや作法を正し、「身」をととのえていくのが禅のやり方です。だから「身と心」という順番にこだわるのです。少しでも油断すると、自分の我儘な思いが転がり始めます。その我儘な思いを差し挟むスキがないほど、禅の修行道場では作法の中に身を投じていくのです。自分のやり方や、我儘な思い、我流というものから一度離れて、仏さまの示した作法、仏さまのやり方に自分自身を当てはめていくのです。道元禅師はこのことを「身も心も、仏の家に投げ入れる」と書き残しています。「投げ入れる」とは面白い表現ですね。これは「仏さまにおまかせする」と理解してもらえるといいと思います。仏さまの作法に従って行うならば、自分のしていることも仏の行いになる。そして、その時の心は、自分が仏さまと同じなのだから、仏さまの心ということになります。日常生活を丁寧におくる修行生活によって、「身と心」が仏さまと一つになっていくのです。
 「禅の教えとは、形をととのえて心を究めるものである」という言葉を聞いたことがあります。なんだか格好良い言葉ですよね。自分もいつか真面目な顔をして「禅の教えとは、形をととのえて心を究めるものである」なんて言ってみたいものですね。しかし、まだまだ修行が足りていないので当分先のことになりそうです。


 さて、「身と心」という言葉の順番について少しお分かりいただけたでしょうか。作法という言葉がキーワードとして何度も出てきましたが、簡単に言うと「仏さまの真似」をしましょうということです。「真似」です。やっと今回の本題に辿り着きました。新しい掲示板の言葉がこちら。

「学ぶということは、真似をするというところから出ておる。 一日真似をしたら一日の真似や、それで済んでしまったら 二日真似して、それであと真似をせなんだら、それは二日の真似。 ところが一生真似しておったら、真似がホンマもんや。 だから、真似が真似になってしまわんようにすること、それが大事や。 そしてそれは、口で言うより実行や。」


 私が永平寺で修行していたときの禅師様のお言葉です。とても分かりやすい言葉なので、これ以上説明は不要だと思います。「仏さま」と言うと、なんだか自分とは遠い存在に感じてしまいますが、自分の周りにいる人で素晴らしい事をしている人がいたら、その人こそ仏さまです。難しい仏教の言葉を使わずとも、その人は仏の教えを自らの行いで示してくれているのです。素晴らしい事をする人の姿を見たら真似をしましょう。その真似をしていれば、その行いによって自分も仏さまと同じ姿になります。そして、それをずーっと続けていけば、ずーーっと仏さまのままでいられます。仏さまの真似を続けると、いつか本物の仏さまになれるのです。


秀元 合掌








曹洞宗 永泉寺

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