お盆は、くわしくは「盂蘭盆=ウラボン」と言います。そしてこの「盂蘭盆」という言葉には、いくつかの語源があると言われています。
一つはインドの言葉の「ウランバナ」です。「ウランバナ」は「倒懸(トウケン)=逆さに吊り下げられる苦しみ」という意味です。これは『盂蘭盆経』の説話にある、目連の母が餓鬼道に堕ちた苦しみのことですが、実は私たち自身の苦しみのことをいっているのです。「逆さ吊り」になっているのは私たち自身のことで、逆さとは物事を正しく見れていない状態です。たとえば、欲望に振り回されていないか。何かが満たされても、さらに次の欲に追われて自分自身が「餓鬼」のように常に満たされない欲求不満に陥っていないか。欲が満たされない事に対して怒って「修羅(シュラ)」のようになっていないか。その怒りの感情に流されて理性を失い、本能のままに振る舞う「畜生(チクショウ)」になってしまってはいないか。そうならないために、ご先祖様に心を向けて、欲から離れる布施の修行をつとめるのがお盆なのです。
「盂蘭盆(ウラボン)」の語源とされるものに、イラン系の言語で「ウルバン(死者の霊魂)」があります。「死者の霊魂」を慰める儀礼がイラン地域から中国に伝わり盂蘭盆の行事になったという説があります。もう一つは、お供えのご飯を盛った器のお盆が「盂蘭盆」であるという説もあります。語源についてはいくつか研究がありますが、どれも「お盆」の供養につながる大切な意味が込められているので、一つに絞る必要もないのではないかと思いますが皆さんはいかがでしょうか。
お盆について色々と説明してきましたが、私が一番気になったのは、なぜ目連さんの母が餓鬼道に堕ちてしまったのかです。お釈迦さまは、目連さんの母が犯した過ちは大きくて深いと言いました。どんな過ちかというと、子を持つ親であれば誰もが犯してしまう可能性のあるものです。目連の母は、子供思いで目連にとってはとても優しい人でしたが、他人に対しては施したり恵むという事をしない人でした。施しを求める人がいても、自分の子に食べさせたいたが為に、一切他人には与えなかったそうです。それが欲深いとされ、餓鬼道に堕ちたというのです。それを知った目連は、自分のせいで母が餓鬼の苦しみを受けていることに気付きます。そこで目連は何とかしたいと母に食べ物を届けるのですが、この行為も欲深い行為だったのです。なぜかというと、苦しむ餓鬼は大勢いるのに、自分の母だけに食べ物を届けて救おうとしていたからです。これは当然の心情ですし、私も目連さんと同じことをすると思います。この様子を見てお釈迦さまは、目連も母と同じように餓鬼道に堕ちてしまわないように、全ての修行僧に分け隔てなく、また見返りを求めずに施しをする「布施」の修行を勧めたのです。そして、その行いの徳によって多くの餓鬼が苦しみから救われたのです。餓鬼の苦しみから解放されたことを喜び、皆で集まって踊るのが「盆踊り」です。
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